ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)
表示
ヘンリー・フレデリック Henry Frederick | |
---|---|
カンバーランド・ストラサーン公 | |
在位 | 1766年10月22日 - 1790年9月18日 |
出生 |
1745年11月7日 グレートブリテン王国、ロンドン、レスター・ハウス |
死去 |
1790年9月18日(44歳没) グレートブリテン王国、ロンドン、カンバーランド・ハウス |
埋葬 | グレートブリテン王国、ウェストミンスター寺院 |
配偶者 | オリヴィア・ウィルモント |
アン・ホートン | |
子女 | オリヴィア |
家名 | ハノーヴァー家 |
父親 | グレートブリテン王太子フレデリック・ルイス |
母親 | オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ |
ヘンリー・フレデリック(Henry Frederick, Duke of Cumberland and Strathearn, 1745年11月7日 - 1790年9月18日)は、イギリスの王族。ジョージ3世の弟。
経歴
[編集]皇太子フレデリックと皇太子妃オーガスタの第6子(四男)として、レスター・ハウスで生まれた[1]。
1766年10月、カンバーランド・ストラサーン公位とダブリン伯爵位を与えられた[1][2]。
兄エドワード・オーガスタスと同様、海軍軍人となった。
1767年か1770年に聖職者ジェイムズ・ウィルモントの娘オリヴィア(- 1774年)と私的に結婚し、彼女との間に非嫡出子を2子儲けた。しかし1771年10月2日、初代カーハンプトン伯爵シモン・ラットレルの娘でクリストファー・ホートンの夫人であるアン・ホートン(1742年 - 1808年)と結婚し、二重結婚の疑惑をもたれた。彼の不適切な結婚が、1772年王室結婚法(ジョージ2世の子孫は、王の許可なしに結婚してはならないという内容)を触発することとなった[1]。
1767年にフリーメイソンに加入した[3]。1782年から1790年にかけてはイングランド・首位グランド・ロッジのグランドマスターを務めた[4]。
アンとの間に子のないまま、1790年にアンに先立ってロンドンの自邸で薨去した[2]。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 森護『英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-』大修館書店、1994年。ISBN 978-4469012408。
- 湯浅慎一『フリーメイソンリー その思想、人物、歴史』中央公論社〈中公新書955〉、1990年。ISBN 978-4121009555。
ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)
ヴェルフ家分家
| ||
フリーメイソン | ||
---|---|---|
先代 第4代マンチェスター公爵 |
イングランド・首位グランドロッジ グランドマスター 1782年–1790年 |
次代 第2代モイラ伯爵 (グランドマスター代理) |